2018.12.12
ココチエ一級建築士事務所 矢倉誠治と申します。
私は、安曇野市穂高に自分で設計した「我が家」に家族と暮らしています。
小学校一年の頃に引越してきた安曇野で育ち、今もこの大好きな安曇野で大切な家族と仲良く暮らしています。
この育ててもらった安曇野に自分の家族と一緒に暮らせることをありがたい事だと感謝しています。
そんな私の生い立ちは・・・
私の家族は、父・母・弟 そして私の4人。
核家族化してきた時代のごく一般的な家庭で育ちました。
父は、転勤の多い いわゆる「転勤族」で、私が生まれたのは三重県四日市市で生まれたそうです。
「生まれたそう…」生まれた時の記憶は当然?ながら無く、そして生まれて2か月くらいで転勤。2年くらいで関西方面を転々と転勤していたようです。主には、大阪、兵庫県などをぐるぐるしていたようですが、私が小学校一年の時にこの長野県、当時は南安曇郡豊科に引越してきました。
安曇野での生活は、今までと違って長く、幼馴染・親友と自然の中でカエルやバッタなどを捕まえては遊んでいました。父の勤め先の「社宅」に住んでいた僕は、仲良くなった幼馴染・親友も仕事の都合で転校していってしまいます。転勤族の家庭に育つ僕は、「いつか転校するのか…」と親友との別れの度に寂しさと不安を抱えていました。
中学2年、父の転勤が決定。
中学2年春、父の転勤が決まりました。転勤族だからずっとここには居られないとは思っていましたが、直面するとやはり心境は複雑でした。
父は「転勤」する事になった。。。
続けて、「豊科で家を建てよう」と。。。
「お父さんもお母さんも、生まれ故郷は遠く、親友や幼馴染とは会えない。だから、お前たちには、親友や幼馴染を大切にしてもらいたい。「友達がいる」という環境を大切にして欲しい」と。転勤で来た、親戚も幼馴染も誰もいないこの地に家を建てる事を決意した両親の気持ちは今思えば複雑だったと思います。
父は、単身一人で各地を定年まで転々と転勤。
以来、僕は信州安曇野に住みつき30数年。両親が作ってくれた、友のいる学生生活の思い出が沢山詰まった環境で育ち、成長できたこと。特に大人になり年齢を重ねるごとに何でも話せる親友、幼いころからの友がいる事に心から感謝をしています。
スポーツ大好き、勉強は・・・。
学生時代は、勉強は苦手。スポーツをしたり遊んでばかりいました。
だから、学校での思い出は、バスケットや陸上。自慢できるのは運動会くらいです。笑。
色んな事に興味がわく性格ですが、その一つひとつにとことんのめり込みます。
今でも続けているバスケットは小学校4年生からはじめて、高校時代は朝練、部室で睡眠、放課後練習。弱小チームだったので、体育館は使わせてもらえなかったのですが、バレー部の先生たちに頼み込んで、端っこのゴールを借りて朝などは練習をしていました。今だから話せますが、夜は、用務員のおじさんにお願いをして南京錠の鍵を僕らが施錠して10時に帰る。。。なんてことをしていました。。。帰ってからも筋トレと頭まで筋肉になっていました。笑
大学は、体育大学を目指しましたが、スポーツ障害で痛めた膝と諸々の事情があり断念。
ものづくりが好きだった僕は、建築系の専門学校に進学することになりました。
専門学校では、大きな建築物の設計に憧れて。
有名な建築家を目指し 笑。高校までとは一変し勉強に明け暮れました。
成績も、今までの人生とは全くひっくり返り。優・良・可の三段階で優しかなかった事を記憶しています。
建築大好き人間。
専門学校時代は、建築オタク。平日は授業、帰っては図面書き、勉強。休日は建物の写真撮影。
僕の学生時代のアルバムは建築物の写真しかありません。。。笑。
就職
就職は、東京の建設会社からスカウト?もありましたが、迷うことなく地元の松本へ。
バブルがはじけて間もない時代。その地域の景色を造る地元のゼネコンで働く事。
信州松本で働く事に憧れと希望を持っての地元での就職。
設計職を希望するも始めは現場。
施工メインのゼネコン(総合建設業)に設計を希望して入社。当然、スタートは現場管理から、そこで現場を知っている設計士になろうと決意。
先輩に「経験に勝るものは無い」という言葉を頂きスゥーっと自分の中に入ってきました。
現場監督一等賞を目指そうと考えました。無謀な負けず嫌い。とことんやるのは変わらずです。
九死に一生。
自分の現場での仕事が終わってから、先輩の現場へ手伝いに行った時の事。窓を閉め切った作業場内でまさかの一酸化炭素中毒。
仕事がすべて完了した直後、全身痙攣で意識を無くし気が付いたら病院のICUに居ました。
その時見た夢は
なぜかわかりませんが、みんなに謝っている夢。。。。
意識を取り戻し、ふと思った事。
謝る人生では無く、感謝される人生でありたい。
せっかく生きるならもっと人の為に生きることのできる人間でありたいと強く思いました。
考えてみれば、夢 やりたい事は自分中心だったのかもしれません。
自分が身に着けた知識や技術はなんのためにあるのか。
活かして、世の為、人の為になる人生を送ろうと決意しました。
そう気が付いたのは生死を彷徨った23歳の時のこと。
今なら笑って話せますが、一酸化炭素中毒のおかげかです。
目指すべき設計部へ
設計部に移る為の条件としては「一級建築士」まずは資格取得できる年、25歳の年に1発で取得しよう。
志は資格取得でスタート台だと考え、猛勉強しました。
仕事が夜の10時に終わり、家に帰り夕食、風呂。
勉強を始めるのは大体午前0時、それから朝の4時まで勉強で2時間睡眠、そして6時半には出社。
学生時代に鍛えた脳みその筋肉は、少しずつほぐれていきました。
25歳で一級建築士を取得し、その2年後、念願の設計部へ。
設計部時代に出会った人の住まい。
設計部に配属後、ビルや大きな建物を設計している中で、個人のお客様の「住宅」の設計に携わりました。
一本も線がかけない設計士。
ご要望を聞く中で、今の住まいの不満、これからの希望、家族の成長。
お客様が描く将来を図面に書く事がなかなかできない。
住まい手様の人生を背負う事になる住宅設計は、今まで経験した何よりも難しく、奥が深い。4年の設計修業の中、友人の家づくりに携わらせてもらった後で、奥さんに頂いた一言「矢倉君のおかげで家族が幸せになった」の一言で「家づくりビト」として一生、生きていこう決心をしました。
それを機に何組かのお客様の住まいに携わり、「個人」の「住まい」にのめり込み、お役に立てる事の「実感」をさせてもらいました。
タイミング
自分の意思に沿うように、社内でも住宅設計を任せられるようになり、そのうちに個人住宅を総合的に任せられるポジションになりました。
ギャップ・・・。
それなりの立場になると、色んなものが見えてきます。
それが、自分なりに想い感じる「お客様の立場」に立てなくなっていく感じがしました。
その想いとのギャップに毎日が自分との闘いです。自分が家づくりでお客様のお役に立てる事。お客様の人生に携わる想いを実行するためには。
2年ばかり悩んでいるところ、背中を押してくれたのは、周りの仲間や先輩、両親や家族でした。
全ては、お客様の為に!
そこで18年間 お世話になった会社を退社し 準備として一級建築士事務所を設立。
初めてのお客様が、来てくださった事で社会的な責任を持つべく、建築士事務所設立後2か月でココチエ建築設計として法人化しました。
設立当初に思い描いていた お客様の為の家づくりを目指して
スローガン Be Happy。「しあわせをかたちづくる」
家づくりを通じて、そこに住まわれる方、そしてご家族の人生を輝かせる為に家はある。
その為の家づくりを!あの時の、友人の奥さんが言ってくれた「家族が幸せになった」と何年経っても言ってもらえるように。
僕らは、お客様の為の家づくりにのめり込んで。家族が幸せになり、携わる皆さんが幸せになれる家づくりを目指しています。
そしてこれからも変わることなく目指していきます。
人を中心とした、人生を輝かせる為の家づくりを!
長文、乱文お許しください。
最後まで読んで下さったことに心から感謝をいたします。